昭和48年08月07日 朝の御理解



 御理解 第18節
 「此方のことを神神と云うが、此方ばかりではない此処に参って来て居る人々が皆神の氏子じゃ。生神とは此処に神が生まれると云うことで此方がおかげの受け初めである。みんなもその通りにおかげが受けられるぞ。」

 信心目標と云うか、私共の頂いておる金光教の信心はここが信心目標でなからなければならない。そこで先ずは私共が神の氏子としての自覚が出来る所から、愈々わが心が神に向かうて行くと云う。信心が有難くなるのであり、又楽しうなるのであり、それが高度になって来れば来る程人間の真実の幸福と云うものを、神人共に神様も氏子も一緒に幸せになって行けれると云う事。幸福になって行けれる、神様と共に助かって行く道が開けて来るのが金光教の信心だと。
 だから先ずは神の自覚と云う、我れ神の子であると云う自覚。その自覚から皆もその通りのおかげが受けられるというおかげを目指さなければならぬ。勿論ここでは皆もこの様なおかげと云うのは、生神、神の資格を資格たらしめるために信心修行がなされる時である。そこでその神の内容と云うのはどういう事かと云うと、生神とは此処に神が生まれると云うことであってと仰る。私共が神様へ一歩一歩近づいて行っておると云う事を自分で分かる、自分で知る事が出来る。
 それはわが心の中に此処に神が生まれる、わが心に。生神とはここに神が生まれると云うことであって、いわゆる和賀心である。和賀心と又は真に有り難しである。それは同じ此処では。だが実際は違うと思うのですけれども、同じ意義を持つものだと思うですね。そういう風に頂いていきたいと思う。真に有り難いと云う心とは大体賀心というものは少しは違うのですけれども、まあ此処では真に有り難いと云う心がもうすでに神がそこに生まれておることだと。
 真に有難しと云うのは、例えばどう言う事かと云うと、真に有難いのである。何かを頂いたけん有難いと云うのじゃない。自分の思うごとなったら有難いと云うのは、あれは嬉しいのである。涙の出る程有難いと云うのは涙の出る程嬉しいのである。違うのです本質的に、嬉しいと有難いと云うのは。その有難いと云うのでなければ神じゃない。神が生まれるとは言えない。だからそれが一番端的に分からせて頂くと云う事は、これが普通の人なら信心がない人なら、信心の薄い人ならばとても有難いと思えそうもない事柄の中にそれこそ有難い勿体ない事だと云うその心が湧いて来る。
 それだだからそういう様な心と云うものがどういう様な場合湧き起こってくるかと云うと、私は恩を知ることだと思うですね。私は平田さんを通して甘木の安武初代の親先生の話を、今まで聞いたことのないようなお話を聞く度に感ずることは、大した先生であったなと云うこと。もう云うならば天地の大恩を知ればもう一切のおかげが受けられるとある。子孫も続き身代も出来、天地の大恩を知る。天地のの大恩を知れば、病気災難からものがれる、頂く事が出来るし、いわゆる子孫繁盛家繁盛、日勝り月勝りのおかげが受けられる、神の恩を知れば。
 神の恩を知らぬ所から物事と云うものが互い違いになって来るんだと御理解があります様に、その神の大恩を知る。甘木の安武先生程しに感じられた方は無かろうと思う位、とりわけこの前平田さんが言っておられましたが、本当は天の恩じゃなかもんね、本当は大地の恩が分かればと教えられたそうですね。言葉では天地の大恩と云うけれども、本当は大地の恩が分かればと仰ったそうですね。だからその大地の恩が分かればね、もう天の恩は自ずとついて来る様に分かるものなんだ、と。
 その恩を知ることから、云うなら金光教的情操と云うのは、私は天地の大恩を少しあてでも分かって行くことが金光教的情操が高められる事と思うですね。ですから、天地の大恩が分かって来るのですから、その辺りの見るもの聞くもの一切がこの天地の御恩徳の中にあるのですから、何を見ても有難いのです。水を使わせて頂いても食物を頂かせて頂いてももう見るもの聞くものが天地の御恩恵の姿である。天地の親神様の働く姿なのですから、それを見るにつけ聞くにつけもう一切が有難い。
 そういう心の状態が少しあて育って行くと言う事が、私は金光教的情操を云う事が大変呼ばれておりますけども、私は是を惜いてはないと思う。金光教的信心の情操と云うのは、そういう情操が豊かな中にです、お仕事があり商売があり、百姓があると云う事になってくる。そういう金光教的情操の中に子供達が育って行くと云う事になるのです。もうおかげを頂かん筈がないです。そうい情操の中におかげが育って来る。それには先ずだから恩を知らねばならない。大地の恩を知らなければならない。
 安武先生が仰ったと云う大地の恩、金光教の信心は大地の恩を知ればよいと仰った。だから大地の恩を知ればです、自ずと天の恩が分かって来る。そこでです私共は先ず手近なところにです、先ず親の恩を知るべきだと思う。その恩を感ずる所からです、所謂感謝の心と云うものが生まれて来る。私は和賀心とは、恩を感じた所から生まれて来る心だと思うですね。もう家の家内が見足らんごとしてたまらん。
 家の主人の言う事する事がはがゆうてたまらん。こう言う事で天地の恩が絶対分かる筈はないです。甘木の親先生は大地の恩が分かれば天の恩が分かる様になって来ると仰ったそうすが、私はその天地の大恩と云うことがです、先ずは親の恩が分かり家内の恩がわかり主人の恩がわかりと云う様にです、その恩を感じきらない人が天地の恩を感じられる筈がない実感的に。だからまちっと親を拝まにゃいかん。主人を拝まにゃいかん、家内を拝まにゃいかんと云う事。
 だから実感としてはそうではなくてもです、それを自分の心に云い聞かせ云い聞かせする修行がいるのです。家内に不足が起こった時には、主人に不足が起こった時には、親を見足らん様な心が起こった時にはです、ああこう言う事じゃおかげが受けられん、こういう事じゃいけんと私は自分の心に感じるそういうものを打ち払い打ち払いする修行が要ると思う。是は難儀と云うものを申しましても良いけれども、難儀と云う事が神愛と分かるときに、その難儀に対する恩というものが感じられて。」
 是を難あって喜べとか、難はみかげとか教えておられるのである。四神様は難あって喜べとさえ仰っておられる。そんな難があって喜べる筈は絶対にないのです。けれどもその難の実相と云うものが分かって来る。難の本質と云うかそれが分かる所から、御礼が言えれる。だから私は全てのものとか事柄とか、又人に対する所の恩と云うものをです、もっともっと感じさせて頂く手前の所のお礼を申し上げねば出来ない事。お礼を申し上げる事の多いのはそれはもう驚くばかりですよ。
 私は昨日〇少が全国大会を終えて元気でそれこそ元気溌らつとして帰って参りました。そこの常持と合楽の間のその辺りから行進。バンドを先頭にして行進して皆が待ち受けさして、私はこうした教会的行事の場合は、その時間にだけでもよいから信者が集まってそれを迎えてやるべきだとそれを痛感しましたね。あれ程何日間お世話の方達がお出られるとき、その感謝を含めてでも、又はああ云う大変な修行をして来た子供達の為にもです、私共信者一同がそれを本当に喜んで迎えてやれる。
 只その子弟だけでは相済まぬ。いや何か勿体ない様な気すら致しました。もう合楽の少年少女会は、それこそ皆素晴らしいと云う事で注目の的であったと云う事を聞かせて頂きましたが、本当に感動いっぱい感激いっぱいで帰って参りました。だからそれはそのまま天地の親神様の感動であり、金光様の感動であり合楽教会全体の感動であると私は帰って参りました時挨拶しました。だからこの感動を生むためには、その為には子供達は子供達なりにしておる。
 一月間冷たい物は採らないと云う様な日々激しい修行に取り組んでそして大会を終える。日田の綾部さんが宮崎の方へ行っておられる。あちらの方へ暫く行っておられてから昨夜帰って見えた。丁度お礼に出て見える時に〇少が帰って来ると云うので丁度修行の冷たいものを頂かせて貰う事の出来る、いわば満願の日だと云う事を聞いて、それでは何か早速冷たいものをと云うて、全部に冷たいものをお供えなさっておられます。私はそういう時に修行と云うものは神様はそれを受けて下さる印をそこに感じますね。
 もし綾部さんおられなかったら、他の者じゃ気も付かんし気が付いたって実際は実力もないし、皆がね出来ないけれども偶々そこに丁度お参りしとった人がそういう風な心を起こされると云う事はです。私は〇少の方達の修行を受けて下さった印を、さあ今日からは冷たいものが頂けるぞと云う時早速冷たいものがそこに現れておると云う事はね、是は只事じゃないなと話した事でした、皆さんに。
 だから本当に修行と云うものは神様が受けて下さる事をです、私共が感じさせて貰うためにです、私共真に有難いとか和賀心にならせて貰うための修行もせなければなりませんと云うことが分かります。そこで今日は私はそういう和賀心、先ずは神の氏子として、神の子としての自覚、そこから我が心神に向かうて行くところの信心、金光教の信心目標と云うものをはっきりして、ならその神とは、和賀心。
 自分の心の中に、生神とは神がここに生まれる事であってと云う生神の誕生を自分の心の中に日々感じて行けれる修行をせなければならないと云う事です。ああこれが生神様吾れと我が心が拝めるとはそう言う事。それが何時もでなくてもです、偶々でもそれが頂ける修行こそが生神の精進だと思うです。それを今日はそういう心の状態、我和賀心真に有難いと云う心はです、恩を知る所から生まれて来るのだと。
 それは勿論天地の大恩、いくら分かっておると云う人があっても、もし家内の恩を知らず主人の恩を知らず、親の恩を知らずと云う様な人であったら自分の周辺に不平不足を云う人があったら天地の大恩を知っとるとは云えない。それは違うです知っとるごたるとです。ですから先ずはです、普通から云うたら却ってその為に難儀をしておると云った様な、これは親とか家内とか云いましたけども、子供に対してでもそうです。子供の恩というものを知らなきゃいけません。
 子は親の恩を知り親は子の恩を知らなければいけません。それを知らずして感じきらずして、天地の恩は私は分かる筈はないと思うです。大地の恩が分かれば自ずと天地の恩が分かると云われる様にここん所の恩が分かって来れば自ずと天地の大恩が分かって来る様になると思うんです。その恩を感じたときに生まれて来る心が私は生神になると云う事を今日は聞いて頂いたのですね。
   どうぞ。